ご覧いただき誠にありがとうございます。このウェブサイトは、1350年以上の歴史ある宝厳寺の活動を知っていただき、皆さまと思いを共有するために開設させていただきました。
「お寺」と聞くと、お葬式やご法事、お墓参りなど「故人を供養する」ことをまずは想像されるかと思います。勿論、ご供養も何より大切ですが、本来の役割はそれだけではありません。そこには仏の教えに触れることができる場所があり、この世に生きる私たちの心の在り方を考え、より良い毎日を過ごすためのきっかけとなるものがあると思っています。古くから受け継がれてきた正しいみ教えを共に学び、授かった人生を共に価値あるものにしていきたいですね。
宝厳寺は、檀信徒の皆さまをはじめ、地域コミュニティと連携し、社会に根ざして開かれたお寺を目指しております。
宝厳寺は、正式名称を豊国山遍照院奥谷道場宝厳寺といい、時宗の開祖である一遍上人の生誕地です。
天智4(665)年に斉明上皇の勅願により越智守興が創建したと伝えられています。
創建当初の宗旨は法相宗であり、空海も逗留したという伝承がありますが、平安時代中期に天台宗へと改宗されました。その後、正応5(1292)年、宗祖一遍上人の法弟である仙阿弥陀仏によって時宗に改宗され寺院も再興されました。
御本尊は阿弥陀如来で、総本山は神奈川県藤沢市にあります清浄光寺(通称:遊行寺)です。
江戸時代の宝厳寺は時宗十二派のうち奥谷派の本山で、四国における時宗の拠点寺院として発展しました。
古図によると、当時は開山堂・奥之院・本堂・毘沙門堂・地蔵堂・観音堂・鎮守社・庫裡・楼門・総門などを構え、さらに門前には十二院の塔頭が並んでいたといわれています。
平成25(2013)年8月の火災により本堂等が全焼し、国の重要文化財である「木造一遍上人立像」が焼失しましたが、檀信徒をはじめ全国の方々の尽力により、平成28(2016)年5月、宝厳寺は再建し、新たに一遍上人堂も建立されています。
また、松山市は文学の街としても有名で、境内には正岡子規や斎藤茂吉など多くの句碑や歌碑があり、桜や大銀杏をはじめ四季折々の風情ある景色を楽しむことができます。
時宗は、一遍上人を宗祖、真教上人を二祖として仰ぎ、両祖師のみ教えを基に、
名号「南無阿弥陀佛」を拠りどころにする浄土門の一流です。
一遍上人も真教上人も教団に所属している僧尼を「時衆」と呼んでいます。
これは浄土教の祖師である善導大師が自らの門弟を「時衆」と呼んだことに由来します。
一日24時間を4時間ごとに分割した勤行(六時礼讃)や不断念仏などの法要を一定期間行うときには、時間で僧尼を交代させる必要があり、交代要員の人数と時間は定められていました。その要員が「時衆」です。
「時衆」は本来個々の僧尼を示す言葉ですが、他教団が使わなくなり、一遍上人を宗祖とする「時衆」だけが使用するようになり、教団の名称として通用するようになりました。
江戸時代に入ると「衆」が「宗」に代わり、「時宗」が宗派の名として確定されます。
そのため、一遍上人を宗祖とする僧尼衆を表すときに、江戸時代より前の場合は「時衆」、江戸時代以降の場合は「時宗」と呼ぶ慣わしがあります。
また、時宗の「時」は『阿弥陀経』の説示である「臨命終時」に拠るとする教説もあります。一遍上人は臨終のお念仏を強調されましたが、これは単に命が尽きる時という意味ではありません。臨終は即ち平生であり、平生は即ち臨終です。つまり、生涯を終えるまで連続する“ただ今”を常に臨終の時と心得て、念仏するのが大事だとおっしゃられたのです。
宝厳寺の境内には、八基の文学碑がございます。
施主の方々が、それぞれの思いを込めて建立して下さったもので、互いに不思議なご縁で結ばれております。
仏教詩人 坂村真民
一遍上人を人生の師と仰ぎ、その生き方を詩作で追い続けた詩人
坂村真民(1909~2006年)は、わかりやすい言葉と独特の筆跡で人々の心を癒し続けてきた日本を代表する詩人。50歳のときに宝厳寺で一遍上人立像と対面し、その志に感銘を受けてから人生の師と仰ぎ、詩作を通してその生き方を追い求め続けました。
お寺の一隅には「念ずれば花ひらく」と刻んだ墓石があり、一遍上人生誕の地で安らかに眠っています。